陸上競技,研究,コーチング:あるいは理論と実践のはざまで

研究員 広瀬健一

科学は常に成功する処方の総体である.こうせよ,然らばああなるであろう.
――ポール・ヴァレリー「科学私見」


1. はじめに

陸上研究室を離れてかれこれ3年近くが経ちましたが,ご縁があり研究室に籍を置かせていただいております.研究員の広瀬健一と申します.
 時折陸上競技研究室(体育系B棟B102)に伺うと,いつも誰かがせっせと研究活動に勤しむ姿が.理詰めで研究,根性で実践.これが陸上研です.あの頃からちっとも変わっていません.変わってしまったのは私の方かもしれませんが・・・閑話休題.さて,本題に移りましょう.本研究室のホームページをご覧いただければお分かりになるかと思いますが,陸上研コラムには「陸上競技の理論と実際」という大きな見出しがついています.その言葉が示す通り,研究室のメンバーは陸上競技の実際の活動をもとにテーマを見つけ,それを理論へと昇華するべく研究に取り組んでいます.以前,私はコラムで「陸上研は『研究テーマは実践現場で探してくる』をモットーに活動しています.」と述べておりました.このマインドは現在も変わっていないようです.
 さて,本コラムでは私がこれまで陸上研究室の活動経験をもとに,一部分ではありますが本研究室のメンバーたちが一体どのような視点を持って研究に取り組んでいるのかについて(そしてその苦労の原因についても),雑駁な内容ではありますが浅見を申し述べさせていただきたいと思います.

2. 科学の方法

本コラムは,陸上競技の実践と理論についての議論を敢行するものではありますが,いかんせんテーマの対象が広すぎて,どこから手をつけていけば良いのか見当がつかないというのが本音でもあります.そこで,議論の糸口として陸上研O Bの山元先生の過去のコラムを参照し,呼び水としてそのお力を借りたいと思います.
 コラム「第142回 400m走競技者のアセスメントとコーチング 山元康平
dhttp://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2019/142.html」において,以下のようなコメントがあります.
 トレーニングプログラムは,個々人の課題と目標に応じて作成されることが重要であることは言を俟ちません.一方で,競技レベル,年齢,性差,体力特性,チーム状況といったあらゆる前提条件を抜きに,「AというトレーニングとBというトレーニング,どっちが効果ありますか?」と,アスリートはおろか,大学院生やコーチ,トレーナーを名乗る人,高名な研究組織の研究員ですら言って憚らないのが現実です.病気を特定せず,薬を飲ませ腹を切ろうというのです.

「病気を特定せず,薬を飲ませ腹を切ろうというのです.」実に鋭い指摘です・・・.ところで医者はどのようなものを根拠にして,病気の特定をしているのでしょうか?おそらく科学的な根拠に基づくものであるはずです.では,その科学的知見とやらは一体どうやって生み出されているのでしょうか?
 アメリカの哲学者パースは「探究する」という人間の知的な働きを4段階に分けました(図1).




1つずつ簡単に説明しますと,まずは「固執の方法」については,「ある問題にたいする回答として気に入ったものをとりあげ,それをたえず心にくりかえし,その信念を強めるたすけになりそうなものは全て強調し,その信念の妨げとなるものには侮辱と憎悪をもって背を向ける」(パース,1968,p63.)態度のことを指します.つまり,自らの思い込みや都合の良いことのみを信念決定に採用する方法です.
 上記の個人の心の中だけで信念を作り上げる「固執の方法」に対抗するかたちで,社会の場で信念を作り上げる方法として,パースは「権威の方法」を提唱しました.この「権威の方法」は,「個人の意思の代わりに国家の意思が働くように仕向けなければいけない.そしてそのために,ある機関をつくる必要がある.その機関は国会意思の実現のために,国民の面前で正しい公認のイデオロギーを守り,それをたえずくりかえして説き,それを青年に教えこまなければいけない」(パース,1968,p65.)と述べています.簡単に言えば,その時点における社会や集団の決まり事を正しいことと見做す見解です.
 3つ目の「先天的方法」は「固執の方法」ならびに「権威の方法」に代わる新たな信念確定の方法として提唱されたものです.上記の2つの方法は個人や集団の気まぐれによって決定してしまう恐れがあるため(パース,1968,p68.),信念の正しさを「理性」に求めようとするものであります.パースは,前出の2つの方法よりも先天的方法の方が「はるかに知的であり,はるかに注目に値する.」(パース,1968,p69.)と述べています.(※「先天的方法」は信念決定の基準を「理性」に求めており,パースは形而上学の歴史に実例を見出しています.なんだか難しくて素人の手に負えそうにないので,本コラムでは横目で睨んでおくだけに留めておきましょう.)
 最後に出てくるのが「科学の方法」です.この方法の画期的な要素は,「信念を,人間的なものによってではなく,人間の外の永遠なもの,つまり人間の思考によって左右されないものによって決定するもの」(パース,1968,p74.)に求めることにあります.そして,彼は「科学の方法」が他の方法よりも優れていることを主張しました.
 さて,簡単に探究の4つの方法について見てきましたが,「病気を特定せず,薬を飲ませ腹を切ろうというのです.」という山元先生の指摘は,病気を特定する過程における個人や集団の思い込みから超越した視点,つまり「科学の方法」の立場から物事を探究することの重要性を再認識させるものです.先のトレーニングの話を例にとってみると,「Aというトレーニング」が絶対に有効だと盲目的に信じている人(固執の方法で考える)や,「Aというトレーニング」を周りの人が皆やっているから,私が所属する部活動でそのトレーニングをするのが定番であったから等の「権威の方法」で信念を決定する段階は,「科学の方法」とは呼べないことになります.そのため研究者は本当に“良い”トレーニングが何かを探究すべく,信念の決定を個人や集団の思い込みに求めるのではなく,信念を「人間の思考によって左右されないものによって決定するもの」(パース,1968,p74.)に依拠することで,客観的な知見を創出することを目指していると考えられます.
 では「科学の方法」の探究方法に依拠した具体的な探究の行程はどのようなものなのでしょうか?本コラムでは,もう少し具体性を持たせるために,佐藤(1993)が自然科学の研究における客観性を獲得する過程について述べている箇所を(少々長くなりますが)引用してみます注1).

もちろん,体育概念における深層構造の剔出といっても,ただ手をこまねいてできるはずはない.また,主観的で自分勝手な「私はこう思う」式の恣意によって果たされるわけでもない.我々は体育概念の「同一的で不変な意味」への到達を目指して,誰が見ても納得できる「客観性」に裏付けられた方法(道筋)を見出さなければいけないのである.
 まず,自然科学を例にとって考えてみよう.自然科学の場合,これまで目を見張るような成果を上げてこられたのは,なんといっても「実験」という方法論によるところが大きい.「実験experiment」とは,単なる「観察」に留まらないで,要するにあれやこれや実際に験してみることに他ならないが,実験的方法の遂行は,通常,当該科学が対象とする事実の法則的把握を目指して,研究者があらかじめ自らの問題意識に基づく仮説を立て,それを検証すべく開発工夫された実験装置を用いて行われる. 
 こうした実験装置を通して,自然科学者は,当該の現象を繰り返し再現できる「再現可能性」と,そこから得られたデータをある尺度を用いて一元化する「測定可能性」を手に入れる.自然科学者は,この「再現可能性」と「測定可能性」を武器として,彼らの研究対象に立ち向かうわけであるが,このことは,皆が認めるような「客観性」の獲得という点では,大変,有利なことである.なぜなら,彼らが対峙するのは,装置によって条件制御されて誰もが追試できる再現可能な「現象」であるし,しかも,それらは一定の共通尺度による測定が可能で,さらに,その実験を支える装置自体も,誰もが目で見,手でふれ,操作することのできる客観的物体として存在しているからである.
 われわれ一人ひとりは,ものの見方や価値観がそれぞれに異なっているが,こうした主観的な特殊条件は,実験装置を介在させることでほぼ無視できることになる.つまり,自然科学における成果が「客観的」だとされるのは,主観的条件が関与しない客観的物体としての実験装置による再現可能な対象の分析,および,主観に左右されることのない共通尺度による数量化に基づく事象の法則的把握,といったところにその根拠を求め得るのである.(傍点引用者)(佐藤,1993,pp.29-30.)

長く引用してしまいましたが,科学における客観性の獲得には,実験装置を用いて誰もがそれをチェック(追試)できる共通尺度としての法則的知識を提示する必要があります.この行程を経ることによって,ものの見方や価値観がそれぞれに異なっている人々の間でも科学的知見は共通言語として各々に理解されるのです.

3. 科学における推論

さて,こうして科学の方法によって客観的な知見がどのように生み出されるのかを見てきましたが,ここでひとつ気になることがあります.それは,科学はなぜ「正しく」て「新しい」ことを言うことができるのか?と言う点です.(※以下の内容は,戸田山(2015)科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる.日本放送出版協会.を参考に作成しました.私の拙い説明よりもはるかにわかりやすく,正確な議論をされているので,ご一読いただければと存じます.)
 これを考えていく上で,山元先生の前言にある「AというトレーニングとBというトレーニング,どっちが効果ありますか?」この質問をもう一度取り上げてみましょう.例えばA君というアスリートを指導しているコーチが,AとBどちらのトレーニングの方が効果があるのか?という質問をしてきたとしましょう.この質問に答えるためには,「新しく」て「正しい」ことを言わなくてはなりません.なぜなら,A君はまだトレーニングをしていないので,A or Bのトレーニングを実際にしてみないと「新しい」結果はわからないからです.そして,そのA or Bトレーニングどちらが効果があるのかという点について,「正しい」ことを言わねばなりません.
 この問題へのアプローチとして,以下からは推論をもとにした考え方についてみていくことにしましょう.例えば,「100m走を専門としている男子大学生競技者」が「上り坂走トレーニング」を実施したら,結果的に「下り坂走トレーニング」をした「100m走を専門としている男子大学生競技者」よりも100m走のタイムが向上したという研究結果があるとしましょう.この研究をあなたが知っていた場合,「上り坂走トレーニング」は「100m走を専門としている男子大学生競技者」には効果があるんですよと言うことができます.さらにまだ「上り坂走トレーニング」をしたことがない「100m走を専門としている男子大学生競技者」のA君に対しても「上り坂走トレーニング」は効果があると言うことができます.つまりこの「上り坂走トレーニング」の研究結果をあなたが知っていた場合,「法則的知識」によって,「新しい」かつ「正しい」(と思われる)推論が可能になるのです.
 これは,これまでの「上り坂走トレーニング」を行った「100m走を専門としている男子大学生競技者」のAさん,Bさん,Cさん,Dさん・・・みんな効果があったのだから,「100m走を専門としている男子大学生競技者」である「私」も同じように効果があるはず!という帰納的推論です.この帰納的推論には他にも種類があり,研究で分かっていることは「100m走を専門としている男子大学生競技者」を対象とした「上り坂走トレーニング」の効果でありますが,「100m走を専門としている女子大学生競技者」が対象者だった場合,「男子でも効果があったから,女子でも効果がありそうだなぁ・・・」と推論することができます.これも「アナロジー」という帰納的推論の一種です.
 しかし,この帰納的推論にも弱点があります.Aさん,Bさん,Cさん,Dさん・・・確かに皆効果があったのかもしれないが,実際に「私」にもホントウに効果があるトレーニングとは断言できないのです.これは「真理保存的でない」とも言われ,これまでこうだったから,今回もこうだとは言い切れない,つまり,結論の正しさは保証されないという限界があります.ですが,そうは言っても結論の正しさは保証されない中で,現場では医者で言うところの,目の前のアスリートに「薬を飲ませ腹を切る」と同じことをコーチは実行せねばならぬのです.最後に,このことについて実践系研究者の方々はどのように考えているのかを紹介させていただきます.

  4.実践系研究者の方途

さて,これまでの議論の帰結を導かねばなりません.上述してきた推論は帰納による推論の形態でありました.その中で,観測された「すべての〇〇は△△である」というデータが集まれば,その仮説はどんどん確からしくなっていき,まだ調べていない〇〇についても「次に調べる〇〇もやっぱり△△だろう」という予言(prediction)を導くことができます.これは「仮説演繹法」と呼ばれるものですが,現場のコーチはおそらく自らの経験やデータをもとに仮説を立て指導を行なっていることでしょう.しかし,その仮説を立てるということが実は困難な課題であると言えるのです.これについて,山元先生のコラムばかり引用して大変恐縮ですが,仮説を立てるまでのコーチの苦難が垣間見える場面を以下に示します.

『400m走には様々な要素が影響するため,様々な特徴を持った競技者がおり,様々なトレーニングのアプローチが可能です.全ての競技者に当てはまる「正しいトレーニング」をどこかの誰かに求めるのではなく,競技者個々人の課題と目標を踏まえ,競技者とコーチによって考え抜かれた「正しいと信じるトレーニング」を行えることが理想であると思います.』(山元,2019). 本コラムで紹介したデータが,コーチやアスリートの皆さんがトレーニングを考える一助となれば幸いです.(コラム「第142回 400m走競技者のアセスメントとコーチング 山元康平
http://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2019/142.html」)

この引用文は,「山元康平 (2019) 400m走における「基準値」.月刊陸上競技,53 (10):206-209.」からの引用でありますが,本引用の特に<競技者個々人の課題と目標を踏まえ,競技者とコーチによって考え抜かれた『正しいと信じるトレーニング』>この文章に注目したいと思います.「競技者個々人の課題と目標」から「正しいと信じるトレーニング」を考案する過程では,競技者とコーチは当てずっぽうやでたらめによって,トレーニングの内容を決めている訳では決してないでしょう.しかし,信念の決定を個人や集団の思い込みに求めるのは,先のパースの指摘によって科学的でないこともわかっています.もちろん競技者とコーチはデータをもとに最大限科学的に裏打ちされた理論を押さえた上で,トレーニング内容の決定を行なっているはずなのですが,それとは裏腹に今まで経験したことのない未知の現象に遭遇することも少なくないでしょう.そして,コーチはこのような情況の中で戦うことを余儀なくされているのではないのかとも考えられます.このような過程を示唆的に説明している比喩がありますので以下にご紹介したいと思います.

われわれは,乗船中の船を大海原で改修しなければならない船乗りの様なものである.しかし,彼らは船を一から組み立てるために船をドックに入れることはできない.彼らは古い構造の船に乗ったままで,強風と荒波に対処する.梁を外したら間髪入れず新しい梁を付けねばならないし,そのためには船体の残りの部分を支保に利用するしかない.そういう具合に,古い梁や流木を使って船体全てを新しく作り上げることはできるものの,再構成は徐々にしかおこなえない.新しい船が古い船から段階的に成長する間,船員は船を組み立てながら,おそらくすでに新しい構造を考えており,それが常に互いの同意が得られるとは限らない.彼らの仕事全体は,今日では予測できない方法で進行する.それが私たちの宿命である.(Neurath, 1944)

上の引用は,「ノイラートの船」と呼ばれる例え話ですが,現場の最前線で活動するコーチやアスリートは,これまでの科学的知見をベースに指導を行い,実践現場で新しく生じた未知の問題に対しては既存の科学的知見を支保に立ち向かうことを繰り返しながら航海を続ける,ノイラートの船の乗組員に例えられるのではないでしょうか.
 『400m走には様々な要素が影響するため,様々な特徴を持った競技者がおり,様々なトレーニングのアプローチが可能です.全ての競技者に当てはまる「正しいトレーニング」をどこかの誰かに求めるのではなく,競技者個々人の課題と目標を踏まえ,競技者とコーチによって考え抜かれた「正しいと信じるトレーニング」を行えることが理想であると思います.』(山元,2019). 本コラムで紹介したデータが,コーチやアスリートの皆さんがトレーニングを考える一助となれば幸いです.(コラム「第142回 400m走競技者のアセスメントとコーチング 山元康平
   http://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2019/142.html」)」と述べ,データを活用して最善のトレーニングを考えることをコーチやアスリートに委ねているのは,おそらくこのような理由に基づいているものと思われます.

5.おわりに

今回扱った実践と理論の関係はコントラバーシャルな問題であることには間違いないでしょう.確かに複雑な実践場面の現象を,実験装置で実験可能な条件に限定し,そこから出てきた知見がいくら科学的だったとしても,複雑な実践場面のほんの一部しか説明できないかもしれません.けれども現在では当たり前になった理論でも,当時の研究者にとっては未知の現象であったはずです.その中で当時者であった方々は,それをなおざりにせずに科学的に分析し,理論化してくれたおかげで,今日に生きるわれわれは覆轍を踏むことを避けられているのです.そうでないと,我々は目の前の事態の解決策となる「仮説」を立てることすら叶わなかったことでしょう.
 ちなみに,この視点はコラム第33回,大山先生担当のコラム(研究者と指導者のあいだ
http://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2014/33.html)にもそれを見出すことができそうです.

指導の現場には,巨大な複雑系を相手に統計や推計を背景にした判断過程があるわけですが,この判断過程を全ての指導者が身につけるのは難しい.例えば,それならば,判断のもとになる情報を整理して蓄積していきましょうというスタンスも必要になるわけです.

「科学の方法」によって研究を行なっていく上で,競技レベル,年齢,性差,体力特性,チーム状況といった,ありとあらゆる前提条件ひとつひとつに科学的な知見を提供するのは恐ろしく気の遠くなる作業であると思います.それを踏まえた上で,どうすればもっと強くなれるのか?もっと上手になれるのか?というような未知の事象を科学するというのは,ジャングルの奥地を一人で探検するようなものです.その道中では,大変骨の折れるイベントが待ち受けています.例えそのような苦しい旅であっても,研究テーマは実践現場で探し,それを「科学の方法」の探究方法に従い研究する.この姿勢を貫くことで,陸上競技の実践場面の現象を誰もがアクセス可能な理論へと昇華させるための道が開闢されるのではないでしょうか.そこから生まれた新たな知見は,きっとコーチやアスリートにとって有意義な情報となり得ることでしょう.

それでも科学のルールに則って記述の努力をしていくことは,実践における選択肢決定の根拠となるべきものであり,指導者の直感を補強する可能性があるものです.

この大山先生の言葉(コラム第33回研究者と指導者のあいだ
http://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2014/33.html)を信じて今日も陸上研のメンバーは歩を進めています.

本コラムはあくまで雑考であることから,読者の皆様の誹りを免れないものと存じます.
 コメント,ご質問がございましたらhiroken8604@gmail.comまで.

※本コラムにおける,「ポール・ヴァレリー」ならびに「ノイラート」の引用にあたっては,私淑する野家啓一氏(東北大学名誉教授)の著書から示唆を得ました.ここに記して感謝申し上げます.

注1)ちなみにこの引用元で最終的に議論されているテーマは「体育とは何か?」という概念を分析するための方法です.本書では歴史的に様々に理解されてきた「体育」という概念に対して,「時代や社会,地域に左右されない体育の概念,いわば体育概念の深層構造を確定する」ために「関数的定義」を用いて,その概念の定義を試みています.興味のある方は是非本書(佐藤臣彦(1993)身体教育を哲学する―体育哲学叙説.北樹出版)をご一読ください.


参考文献
Neurath,O .(1944)Foundations of the Social Sciences, in O. Neurath, R. Carnap, Ch. Morris, eds., International Encyclopedia of Unified Science, vol. 2, n.1, Chicago: University of Chicago Press. p.47. なお,本引用はクワイン(1984)著大出晁・宮館恵訳.ことばと対象.勁草書房.で取り上げられている訳文を参考に訳出した.
大山卞圭悟(2014)RIKUPEDIA陸上競技の理論と実際.研究者と指導者のあいだ. http://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2014/33.html
パース(1968)上山春平, 山下正男訳.論文集.中央公論社.
佐藤臣彦(1993)身体教育を哲学する―体育哲学叙説.北樹出版.pp.29-30.
佐藤臣彦(2014)コーチング概念の哲学的考究―[知の構造]の視点から―.身体運動文化研究.19(1):1-17.
戸田山和久(2015)科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる.日本放送出版協会.
ヴァレリー(1967)佐藤正彰訳.¬科学私見.ヴァレリー全集9 哲学論考.pp. 308-319.
山元康平(2019)RIKUPEDIA陸上競技の理論と実際.400m走競技者のアセスメントとコーチング. http://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2019/142.html
2020年3月22日掲載

戻る