エキスパートは1日にしてならず
DC2 村山凌一
はじめに
東京オリンピックまで1年を切り,日本ではこれまで以上にスポーツに関心が寄せられているころだと思います.陸上競技においても,先日行われたドーハ世界陸上では,メダル3つ,入賞5つと東京オリンピックに向けて盛りあがりを見せています.少し前の出来事になりますが,第一生命が幼児から小学6年生に対して行った「大人になったらなりたいもの」調査(第一生命、2019)で,陸上選手が前年度36位から7位へ急浮上し,上位にランクインしました.陸上選手を目指したいという子が増えたということは,ユースの段階から競技人口が増えるきっかけになり,将来的にトップアスリートになりうるタレントが陸上競技を選択してくれる可能性にもつながります.
しかしながら,トップアスリートへの道は険しく,目指したからと言って誰しもがたどり着けるとは限りません.また以前のコラム(第144回「スポーツにおけるタレント発掘と育成について」)で紹介されていますが,これまで陸上競技で日本代表になっている選手は,早期から陸上競技を選択しておらず,高校生期くらいから本格的に取り組み始めている人がいることが示されています(タレントトランスファーガイド).
そうはいってもトップアスリートとして活躍するためには,生得的な才能があることや,長い時間をかける必要があること,技術習得は早い段階から取り組むべきである,と考えている人が多いのではないでしょうか.では本当にトップアスリートに到達するためには,生まれ持った才能が必要不可欠で,早期から取り組み,長い時間をかけなければならないのでしょうか?
本稿は,スポーツで成功したいと思った際に思い浮かぶ様々な疑問を,著名な論文や理論にあたりながら,考えていきたいと考えています.最後までお付き合いいただけたら幸いです.
エキスパートになるには生まれ持った才能や長い時間が必要か
「エキスパートになるには1万時間かかる」こんな話が流行りだしたのは,マルコム・グラッドウェル氏が出版した著書『outliers』の影響なのではないでしょうか(日本では2014年に勝間和代氏によって『天才!成功する人々の法則』として訳されています.著書の中ではアンダース・エリクソンという研究者が,エキスパートと呼ばれるレベルに到達した音楽家たちは,そうでなかった人間に比べて,上達するまでにかけてきた時間が長く,おおよそ10000時間をかけていたことを紹介しています.この本が元か,論文が元か,定かではありませんが,何事も物事が上達するまでには長い時間がかかるという認識を人々に与えたのは,このことからなのではないでしょうか?
グラッドウェルが引用したエリクソンの研究「The Role of Deliberate Practice in Acquisition of Expert Performance」(Ericsson,1993)では,たしかにエキスパートに到達している人間は,そうでない人間に比べて,その技能を高めるために費やした時間が長く,トータルで10000時間であることを述べました(図1).これまでの研究でも読書時間は読解能力に関係していることや,有酸素性代謝能力に影響を与えているのは遺伝的な要因だけでなく日々のトレーニングであるということも報告されており,技能的な能力も生得的なものでなく,時間をかけて上達すると考えられると述べられています.
しかしながら単純に10000時間のトレーニングをこなしたからと言ってエキスパートに到達するわけではありません.エキスパートであればあるほど昼間に睡眠時間を取ってメリハリをつけていることや,エキスパートに達した人間は「指導者へのアクセスを早期に行い,計画的にトレーニングを継続しました.質の高いトレーニングや親のサポート,病気やけがを回避すること,モチベーションを保つこと」を行ってきたことが報告されています.したがって,ただ10000時間を費やしたからと言って,エキスパートに到達するわけではなく,その中身や質に注意しなければならないということが述べられています.
図1:エキスパート群とノーマル群の累積トレーニング時間と年齢
(オリジナルをもとに筆者作図)
ところで10000時間というとどの程度時間がかかるものでしょうか.単純に1日3時間週5日トレーニングを積んだとします.1年間を52週だとすると
10000÷((3h×5day)×52week)=12.8年
ということになります.時間だけを考えると1日10時間練習すれば3年ほどで10000時間に到達してしまいますが,前述したとおり病気やけがを回避しながら行うことや,質の高いトレーニングが必要であることは言うまでもありません.
国際陸連は競技者の発達ステージを5段階に分け10年の時間をかけてステージ5に至るようコーチングすることを推奨しています(
「INTRODUCTION TO COACHING」).
また,スポーツ技術は,様々な要因が絡み合って複雑に成り立っていることから単純にその種目の動きのトレーニングだけがその種目のトレーニングになっていることは限りません.激しいトレーニングだけがその種目のパフォーマンス構成にかかわっているわけではないということを忘れてはいけません.
トレーニングの適時性は存在するか
もう一つの疑問としては,いつ,どのタイミングでどんなトレーニングを行ったらよいかということについてです.
これまで学校現場において保健体育の教科書では,スキャモンの発育発達曲線が記載されています(図2).義務教育機関で教わる内容なので詳細は省きますが,ここでいう神経型の成長が盛んな頃にスポーツ技能の向上に励み,一般型が成長する頃に筋力トレーニングを行うべきであるという話をしばしば耳にします.
図2:スキャモンの発育曲線(1930)
(オリジナルをもとに筆者作図)
また,日本においては宮下モデルというモデルが存在しています(図3).このモデルは東京大学教授であった宮下充正先生が「子どものからだ-科学的な体力づくり-」という著書の中で,スキャモンの発育曲線を踏襲して示した図になります.
図3:宮下モデル(1980)
(オリジナルをもとに筆者作図)
この二つのモデルから動作の習得には神経型が作用しており,技術の習得を10歳までに行うことが望ましいとされています.また宮下モデルでいうところの力強さは,スキャモンの発育曲線でいうところの一般型にあたり,宮下は身長の伸びが落ち着いた15歳ころから,筋力トレーニングを行うべきであると述べています.しかしながら,大澤(2015)は,近年の日本人の身長が伸びる時期が早まっていることから,実際に握力などの筋力が向上する時期はもっと早期に出現していることを明らかにし,これらのモデルよりも早期に行う必要性や,これらのモデルを見直す必要性を述べています.
ここでそもそもの話に立ち返りますが,こうしたモデルはどんなエビデンスでもって作成されたのでしょうか.
まずスキャモンの発育曲線についてです.この図の元になった研究はスキャモンの「The Measurement in Man」であるといわれています.この研究は今から90年も昔の1930年に発表され,現代にいたるまで広く発育発達現場まで受け継がれています.スキャモンは解剖学を専門としており,この研究も人体解剖を行い各器官の大きさから求められたものであるといわれています(一般型なら骨格筋や骨の太さ,神経型なら脳や眼球の大きさ,生殖型なら睾丸や子宮といった感じです).つまりここで示されているスキャモンの発育曲線は,そうした体の大きさに関するものということになります.
ちなみに発育発達の世界では体の大きさの成長のことを発育と言い,それぞれの機能の成長のことを発達と言います.このことからスキャモンが作成した曲線は発育曲線であることがわかります.ごくたまにですが誤って発達曲線と入っているものがあるのですがそうでないことに注意が必要です.そうはいってもこのことについて,佐竹(2015)は「発達までも説明できてしまいそうなくらいスマート」であると述べており,そう感じる人は少なくないのではないでしょうか.
話をもどしますが,これらのことからいつどの時期に発育するかに関しては,近年のモデルを作成する必要性があり90年前の国外の研究や40年前の日本の文献に頼っていられなくなっていることが課題として挙げられています.また,機能の発達(技能や力発揮など)に関してはいつどのタイミングで行うべきかについてこのことから断言することはできません.つまり,私が知る限りでは,日本でまことしやかにささやかれている
「早期に技術に取り組まないと上達しないよ」
「筋力トレーニングは背が伸びてから」
という説を信用するためにはエビデンスが乏しいことが考えられます.
まとめ
実際にエキスパートに到達した人の中には,早期からたくさん練習を積み,シニア期にかけて活躍した競技者は存在するでしょう.しかしそうでなくトップアスリートに到達した選手も多くいるのではないでしょうか(詳細に関しては第144回「スポーツにおけるタレント発掘と育成について」を参照).本稿で確かな結果を示すことは難しいですが,まことしやかにささやかれている事柄がどんなエビデンスでもって提唱されたのかを確認することや,正しく理解することの大切さに関しては再認識することができるのではないでしょうか.
最後になりますが,日本にはこんな諺があります.
「十で神童,十五で才子,二十歳過ぎればただの人」
早期に神童と呼ばれている人が必ずしも大人になって成功するとは限らないことを,古くから戒めとして語るために作られたのかもしれませんね.
最後までお付き合いいただきありがとうございました.
参考文献
Ericsson,K.A et al(1993),The Role of Deliberate Practice in Acquisition of Expert Performance.Psychological Review 100:363-406
マルコム・グラッドウェル・勝間和代(2014)天才!成功する人々の法則.講談社:東京
宮下充正(1980)子どものからだ-科学的な体力づくり-.東京大学出版:東京
大澤清二(2015)最適な体力トレーニングの開始年齢:文部科学省新体力テストデータの解析から.発育発達研究69:25-35.
佐竹隆(2015)スキャモンの発達曲線とは何か.子どもと発育発達2015:4
Scammon,RE.(1930).The Measurement of Man.
Thompson Peter J L. (2009) Introduction to Coaching: The Official IAAF Guide to Coaching Athletics. Warners Midlands plc
2019年12月16日掲載