2回の“腕振り研究”から思うこと

尾縣 貢

何事も積み重ねであることを実感します.第一回のコラムが木越先生の「筑波大学における陸上競技研究の歴史的な役割」.その時点で,100回という連載は気の遠くなるような先のことでした.100回連載達成に際し,これまでの研究室メンバーの頑張りに対して敬意を表しますとともに,アスリート,コーチ,そして研究者が様々な思考を作り上げていく上で,コラムを役立てていただくことを祈念しています.

私は大学教員になってから33年目を迎えますが,研究の積み重ねの中で自身のやっていることに矛盾を感じたこと,仮説が完全に覆されたこと,研究の変更を余儀なくされたことなどがありました.研究に取り組む際には,強い意志を持って臨まないといけませんが,一方で何事にも柔軟に対応できる姿勢が必要であることを痛切に感じました.また,苦境を楽しむというのも研究の面白さであると思えるようになりました.
 そんな例をあげたいと思います.私は,過去に走運動における腕振りの研究に2回取り組みましたが,2つの研究から得られた対照的な結果に戸惑いながらも,矛盾を楽しむことができました.1回目は,「上肢の無気的作業能が400m走タイムおよび走速度逓減に及ぼす影響」(尾縣ほか, 2003),2回目は「Physiological aspects of traditional Japanese Nanba style running」(Ogata et al.,2006)です.
 1990年の後半から生理学的な見地から見た400m走の面白さに魅せられて,遂行した一連の研究の最後が「400m走における腕振り」でした.図1は,主たる結果の一つです.これは,最大努力30秒ペダリング中及びクランキング中のパワー低下率(〔最大パワー − 最小パワー〕 / 〔最小パワー出現時間 – 最大パワー出現時間〕)と, 400m走中の320-360mの平均スピードから360-400mの平均スピードを減じた値との関係を示しています.この結果から言えることは,まずクランキングやペダリングでの低下率の低い者は,ラスト400mでのスピードの低下が小さいというこ,とです.中でも,その関係はクランキングの方が強いことが分かります.図2は,最大努力30秒ペダリング後(PL)およびクランキング後(CL)の最大乳酸値に対する400m走後の最大乳酸値のそれぞれ割合(%)と400m走タイムとの関係を示しています. CLと400m走タイムの間には,r=-0.761(n=10)という1%水準で有意な関係が認められましたが,PLの間にはr=-0.598(n=10)と有意な関係は認められませんでした.すなわち腕を追い込める者は,400m走タイムが優れているということが言えます.そもそも400mランナーにとっては,脚を追い込めることは必要条件であり,脚の持久性では差がつきにくいという解釈ができます.いかに,脚の機能を高めつつ,いかに腕を鍛えていくことが大切かということを認識しなければなりません.
 腕振りの効果は,①走りのリズムをとる,②下肢の動作とのバランスをとる,③体幹の姿勢を安定させる,④キックを強くしストライドを伸ばす,などがあげられます.後半で腕が振れなくなるスプリンターは,身体のいろいろな部分で動きの変化が現れ,本来の走動作から大きく外れてしまうことで,大きなスピード低下を招くと考えられます.
この研究からは,400mランナーがなぜ腕のトレーニングをしなければならないのかのヒントが得られました.

この研究を投稿した後の2002年,釜山アジア大会のテレビ解説を行なっている際に,衝撃を受ける出来事がありました.それは,女子10000mのTV解説をしていた時のことです.当時,トラック女王であった福士加代子さんを5000mすぎで一気に引き離し,完勝をした中国の孫英傑選手の走りが私の常識をうち破りました.2位の福士さんのタイムは,30分51秒81の日本歴代2位でしたので,孫さんがいかに強かったが理解いただけると思います.5000mも同様,14分55秒19の日本記録をマークした福士さんを寄せ付けないレースでの孫さんの完勝でした.その強さもさることながら,両腕を“だらっ”と下げ,振らない走法に驚嘆しました.アナウンサーにフォームの解説を求められ,口ごもったように記憶しています.この走法は,名古屋ウィメンズマラソンで,初マラソン歴代日本一の快挙をなした安藤友香さんの走りに近いものです.
 400m走で腕振りの重要性を説いた直後に,種目は違うものの,腕を振らない変則的な走りを見せられ,これまでの研究に対する懐疑とともに,これほどまで対極の考えがある事に興味を持ちました.この二つの事象は,一見矛盾しているように思えますが,目的を達成するためには技術は特異である事を思い知らされました.
 この腕を振らない走りは,江戸時代に見られた「ナンバ走」に類似したものです.ナンバ走は,着物文化の産物とも言われています.腕を振ると,着物の前がはだけ,着衣が乱れてしまうことから発生したという説があります.飛脚は,この走りで1日に平均137kmも走破していたと伝えられており,中には,1日200km走ったという記録もあるようです.上体を捻らないため内臓の疲労が抑えられ,効率の良い走りであるという解釈もされています.日本古来の走法であり,何か謎めいたものに惹きつけられ,持久的ランニングにおける腕振りをエネルギー効率などの面から検証することを試みました.
 そこで,普段からナンバ走をトレーニングに取りいれている都内のA中学・高校のバスケットボール部員を招き,トレッドミル上でのナンバ走と,通常の走の2種で測定を試みました.オールアウトに至るまでの各スピードの段階で,酸素摂取量,RPE(Ratings of Perceived Exertion:主観的運動強度),筋電図の測定を実施しました.
 図3は,8名の被験者の酸素摂取量とRPEの推移を示しています.被験者の中には,被験者YAに代表されるように,同じスピードで走った場合,ナンバ走において酸素摂取量が小さく,効率性に優れている者が存在します.その時の,RPEも低いということで,運動強度に関する内省とエネルギー消費の大きさも一致しています.被験者YA以外にも,このような傾向を示す者が存在することが分かります.逆に,被験者KIに代表されるナンバ走の方が明らかに効率の悪いケースがあることも事実です.すなわち,この技術は,向き不向きがあるということです.
 同時に計測した筋電図の結果からは,なんば走では,内転筋,大臀筋といった下肢の筋肉をより強く動員していること,体幹を捻る際に使用される外腹斜筋の動員が小さいことが明らかになりました.なんば走は,体幹を捻らないために上肢の負担が小さいが,腕を振らない分,脚の動作主導で下肢の筋肉をより強く動員して走っていると解釈できます.
 そして,決定的なことは,最高速度はナンバ走の方が有意に低いということです.これらの結果を総合すると,最大酸素摂取量がマークされるスピード以下では,ナンバ走のエネルギー効率が高くなるケースがあるということです.すなわち,長距離走やマラソンであれば,人によっては腕を振らない走法がエネルギー効率を高め,より良いパフォーマンスに繋がる事が考えられます.これは,先出の安藤さんの走りの有効性を示すものと言えます.

「脚で走るのだから,腕振りなんか研究の対象にならないよ」と研究自体を否定された先生がおられました.一緒に研究を進めていた大学院生が落ち込んでいたのを覚えています.たかが腕振りですが,パフォーマンスにこんなに影響を及ぼしていることを主張したいと思います.また,短距離走と長距離走では腕振りへの考え方が異なってくるというのも興味深いものです.「矛盾のようだが矛盾でない」この2つの研究から面白さを感じました.

図1 上肢、下肢の無機的パワー低下率と400m後半の速度低減との関係


図2 上肢の無機的作業能が400m走に及ぼす影響


図3 走速度増加に伴う酸素摂取量とRPEの変化




参考論文:
尾縣 貢・高本恵美・伊藤新太郎(2003)上肢の無気的作業能が400m走タイムおよび走速度逓減に及ぼす影響.体育学研究,48:573-583.
Ogata, M., Suematsu, D., Endo, T., Yano, T., Kaneda, N. , and Hasegawa, S.(2006) Physiological aspects of traditional Japanese Nanba style running.Journal of Human Movement Studies, 50:171-184.

2017年8月7日掲載

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