1.はじめに
RIKUPEDIAをご覧の皆様,はじめまして.今回コラムを担当することとなりました,博士前期課程1年の鈴木俊洋と申します.筑波大学の体育専門学群を経て,今年度からこの研究室の一員としてお世話になっております.私は短距離走が専門で,現在も現役で競技を続けており,100m走を専門種目としております.そのため,今回のコラム掲載にあたり,100m走に関するテーマで何にしようかと決めあぐねているところで,リオデジャネイロオリンピックでの,100,200m走で,ウサイン・ボルト選手によるオリンピック3連覇,また,男子4×100mRでは,日本が銀メダルを獲得し,日本にとっても世界にとっても盛況な大会となった様子をテレビで見ました.そこで,どちらかに関するテーマにしようということで考えた末,このコラムではウサイン・ボルト選手について,その中でも,身体における力学的なバネを示す「Stiffness」という少し特殊な観点から,ボルト選手の走りについて紹介していきたいと思います.
2.Stiffnessとは
Stiffnessは単純に和訳するとStiff(硬い)+ness(状態を表す接尾語)となるため,「硬さ」と表すことができ,この意味での「硬さ」は,スプリングマスモデル(SMM)によって再現されたバネの硬さを指します.SMMとは,身体質量を質点,脚全体を線形状のバネにより競技者を再現したもの(図1参照)であり(Farly and Gonzales;1996),跳躍やランニングにおける弾性エネルギーの貯蔵および再利用の説明に利用されます(Cavagna;1985).そして、陸上競技のスプリント走やジャンプ運動時に用いられる脚Stiffnessや鉛直Stiffnessは地面に加えた鉛直の力を(脚の長さor身体重心の)変位で除すことで求められ(図1参照),力学的にはこの値が高いほど硬いバネ,低いほど柔らかいバネである選手と言えます.短距離走を対象とした研究では,Stiffnessが高い選手ほど100m走の記録が高かったと報告されており(Monte et al.2016),また,ピッチが高い選手ほどStiffnessも高い値であったと報告されています(Monte et al.2016).
3.ウサイン・ボルト選手のStiffnessについて
Taylor et al.(2012)は、2009年のベルリン世界陸上の男子100m走決勝におけるウサイン・ボルト選手の最大疾走速度の到達点(60~80m)において,Morin et al.(2005)の方法を用いて鉛直および脚Stiffnessを測定しました.その結果,最大疾走速度は12.3±0.02(m・s-1),鉛直Stiffnessは355.8±0.46(kN・m-1),脚Stiffnessは21.0±0.05(kN・m-1)となり,同時に走った選手(タイソン・ゲイ,アサファ・パウエル)と比較すると,ゲイ選手は最大疾走速度が12.1±0.02(m・s-1),鉛直Stiffnessは541.8±0.89(kN・m-1),脚Stiffnessは31.0±0.05(kN・m-1),また,パウエル選手は最大疾走速度が11.9±0.01(m・s-1),鉛直Stiffnessは457.0±0.47(kN・m-1),脚Stiffnessは28.4±0.05(kN・m-1)であったと報告されています.この時の3名の記録はウサイン・ボルトvsタイソン・ゲイvsアサファ・パウエル,9.58vs9.69vs9.72(s)となっており,記録が高いほどStiffnessが高いというわけではないことが示唆されました.Taylor et al.(2012)は,これらの結果について,ボルト選手は長い脚であること,また,長い接地時間であるということから変位が大きくなるということでStiffnessが低くなったのではないかと推察しています.
4.まとめ
上記のように世界最速の男のStiffnessが他のトップ選手と比べて低いということがわかりましたが,このことから短距離選手のStiffnessが低い選手は速いということなのでしょうか? 前述したように,Stiffnessが高い選手ほど100m走の記録が高く,ピッチが高かったと報告されており,一般的にはStiffnessが高いことが100m走の記録が高いことに結びつくと考えられます.しかし,ボルト選手のStiffnessは低いということから,Stiffnessと100m走パフォーマンスとの関係性について疑問視されます.Taylor et al.(2012)は,Stiffnessの低い選手は接地時間を長くすることでより大きなストライドの獲得に貢献していると推察しており,Stiffnessが低いからといって,それが不利になるわけではないと考えられます.このことから,ボルト選手のStiffnessはボルト選手自身の走りを手助けしているのではないかと考えられます.また,ボルト選手は,他のトップ選手に比べ,非常に高身長であり,それが脚の変位を高くし,Stiffnessを低くしている可能性があります.そのため,形態的特徴によってもStiffnessが決定づけられているかもしれません.これらのことから, 力学的観点から見た下肢のバネ能力であるStiffnessはその高低によって優劣が決まる「能力」というよりは「特性」と捉える方が良いのかもしれません.
苅山・図子(2013)は,Stiffnessとバウンディングとの関係について,Stiffnessと跳躍距離には相関関係が認められないもののStiffnessと水平速度との間には相関関係が認められていることから,バウンディングにおけるStiffnessが高いことは,踏切時間を短くし,高い水平速度に対応するための要因であると述べています.短距離走や跳躍競技おいてもバウンディングは有効なトレーニング手段であり,多くの運動指導現場でも用いられています.苅山・図子(2015)はバウンディングにおけるStiffnessを高める手段として,リバウンドジャンプにおける足関節底屈筋群の力やパワー発揮能力を向上しておくことが有効であると述べているため,それによってStiffnessを高めることにより,接地時間や水平方向の速度獲得を課題とする短距離選手には有効な手段になるのではないかと考えられ,stiffnessは走りの特性だけでなく,指導現場では,トレーニングを選択する上で必要な指標となるかもしれません.しかし注意しなければならないのは,今回紹介した StiffnessはSMMによって見積もられた値であるため,実際の指導現場でいわれているような硬いバネ,柔らかいバネを持つ選手といった表現とは異なる可能性があり,解釈には注意が必要です.
以上のことから,世界最速の男のStiffnessは低い値となりましたが,この値はボルト選手の特性であり,それが万人にとって良いわけではないと考えられます.しかし,世界最速の走り方を研究することは,世界のスプリントパフォーマンス向上に結びつくと考えられ,こうした彼の走りの研究から,今後更なる世界記録更新の可能性が期待されるでしょう.