筑波大学陸上競技研究室院生コラム「RIKUPEDIA」をご覧の皆様,こんにちは.博士課程の山元です.
2015年3月28日,アメリカ,テキサス州オースティンで行われたテキサスリレーにおいて,桐生祥秀選手(東洋大)が3.3mの追い風参考記録ながら,9.87秒の好記録をマークしました.この記録は,追い風の影響を考慮しても公認での9秒台が期待できるものであり,またシーズン初戦であることも踏まえると,いよいよ「日本人初の100m9秒台」が現実のものとなる時が来たと思われます.そして,今週末には例年100mの好タイムが記録される織田幹雄記念国際陸上大会が広島にて開催され,桐生選手のみならず,山縣亮太選手(セイコー),高瀬慧選手(富士通)など,「その記録」を達成可能な多くの選手が出場を予定しています.ワールドリレーズの代表選考の関係で例年より開催が10日ほど早いこと,100mが行われるのは日曜日であり,前日の土曜日には200mの予選決勝が行われることなどの影響も考えられますが,好記録,そして「その記録」が期待できることに疑いの余地はありません.
「100m10秒の壁」「日本人に9秒台は不可能」などとキャッチーな煽り文句が今も昔も使われますが,連続した時間である「10.00秒」と「9.99秒」との間に,我々の認知や価値観を越えた全く異なる意味やパフォーマンス構造が存在するとは考え難く,加えて,特定の人種においてある運動パフォーマンスを達成できる可能性が存在しないということも論理的に受け入れ難く,これらの議論はいずれもそもそもナンセンスであるというのが筆者の私見です.とはいうものの,これまで「その記録」に挑み続けてきた多くのアスリートやコーチ,それを支え,望み,夢見た全ての人々に敬意を表し,今回のコラムでは,「100m9秒台」に関する話題をお届けしたいと思います.
そもそも,「1メートル」とは「北極点から赤道までの距離の1000万分の1」という定義を起源としています(現在の定義は,『1秒の299792458分の1の時間に光が真空中を伝わる距離』).また「1秒」は,地球の自転の周期の長さ,すなわち「1日の長さ」を基に定義されたものです(現在の定義は,『セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移により放射される電磁波の周期の9192631770倍に等しい時間』)(小川,2008).このふたつの単位の起源,そして,人類にとっての「100m」と「10秒」の関係について,小川(2008)は,次のような素晴らしい名文によって表しています.
『1mも1秒も、元はと言えば、われわれが生息する地球を基準に決定されている.
100m、10秒。
これは、あらゆるスポーツを通じて、記録上の、数学的な美の極致と言うべきものである。この数字が、人類でもっとも速い人々の目標になったという事実は、地球と人間の、ある種の調和の表れというふうにも思える。』
さて,そんな『地球と人間の調和の表れ』たる「100m9秒台」ですが,2015年3月までに,全世界で95名がこれを達成しています.人類が(電気計時で)初めて9秒台を記録したのは今から47年前のことです.1968年10月14日,メキシコ五輪の決勝レースにおいて,Jim Hines選手(米国)が9.95秒を記録しています.その後,1991年の東京世界選手権においてCarl Lewis選手(米国)が初の9.8秒台となる9.86秒を,1999年のアテネGPにおいてMaurice Greene選手(米国)が初の9.7秒台となる9.79秒を記録しています.そして,2008年の北京五輪決勝において,Usain Bolt選手(ジャマイカ)が,大きくリードを奪ったラスト10mで両手を広げ胸をたたくパフォーマンスを見せながら9.69秒と初の9.6秒台を達成し,翌2009年のベルリン世界選手権においてさらに記録を短縮する9.58秒(現世界記録)を達成したのは記憶に新しいことでしょう.一方,日本人選手の活躍に目を向けると,1993年の東四国国体において朝原宣治選手(同大→大阪ガス)が日本人初の10.1秒台となる10.19秒を記録し,1997年には初の10.0秒台となる10.08秒をローザンヌGPにおいて達成しています.そして,翌1998年のバンコクアジア大会において,伊東浩司選手(富士通)が10.00秒(現日本記録)を達成します.その後,2000年代には末續慎吾選手(東海大→ミズノ),塚原直貴選手(東海大→富士通),江里口匡史選手(早大→大阪ガス)が10秒0台を記録し活躍しました.その後の桐生,山縣両選手の活躍については周知の事実と思われるので割愛しますが,冒頭で述べた桐生選手,山縣選手,高瀬選手らの活躍から,いよいよ「その記録」が達成される期待が高まっています.
「100m9秒台」についての研究成果を,レース分析に関するものに着目して紹介します(表).松尾(2009)は,国内外の多数の100m競技者のレースを分析し,100m走タイムとレース中の最高走スピードや通過タイムとの関係について検討することで,目標とする100m走タイムを達成するための目標値を示しています.そして,100m走において9秒台(9.99秒)を達成するためには,レース中の最高走スピードは約11.7m/秒,30mの通過タイムは3.81秒,60mの通過タイムは6.46秒が目安となることを示しています.一方,宮代ほか(2013)は,多数の日本人スプリンターの100mレースを分析し,同様に通過タイムの目安を示しています.そして,宮代ほか(2013)の研究における100m10.00秒の目安は,30m通過タイムが3.83秒,60m通過タイムが6.46秒であり,先述の松尾(2009)の報告とほぼ一致しています.
では,100m9秒台が目前に迫った日本人スプリンター達は,実際にどのようなタイムやスピードで走っているのでしょうか.松尾ほか(2013)は,桐生選手が10.03秒で走ったレース(2013年織田記念決勝,追い風参考記録)での最高走スピードは11.65m/秒,同レースで10.04秒で走った山縣選手は11.57m/秒であったと報告しています.またこの時の30mおよび60mの通過タイムは,桐生選手が3.84秒と6.44秒,山縣選手は3.83秒と6.45秒でした(松尾ほか,2013).これらは,先述した松尾(2009)および宮代ほか(2013)が示した100m9秒台の目安とほぼ一致するものであることがわかります.
また,谷川・内藤(2014)は,同レースを含む桐生・山縣両選手の複数レースにおける通過タイムや歩数について報告しています.桐生選手は,10.01秒のレース(2013年織田記念予選)では47.3歩,山縣選手は10.04秒のレース(同決勝)では47.6歩で走っています(谷川・内藤,2014).このことについて,宮代ほか(2013)は,100m走における記録と歩数の関係から見た身長別のモデル歩数を示しています.これによると,桐生・山縣両選手に近い身長1.75mの10.00秒のモデル歩数は,46.8歩となります.モデルの推定誤差範囲を考慮しても,両選手は平均的かやや歩数が多い(すなわち,ピッチが高い)傾向にあるといえます.また,桐生選手は,高校1年時の10.58秒(2011年山口国体)から高校2年時の10.21秒(2012年岐阜国体.シーズンベストは10.19秒)にかけて,総歩数が48.4歩から48.0歩とあまり変化がなく,すなわちほぼ同じストライドでピッチを高めることで記録を短縮しています.一方,高校3年の10.01秒のレースでは,前述したように47.3歩と歩数が少なくなっており,ストライドが大きくなったことで記録が短縮されています(谷川・内藤,2014).対して山縣選手は,大学1年時の10.34秒(2011年織田記念.シーズンベストは10.23秒)時は48.9歩,大学2年10.08秒(2012年織田記念.シーズンベストは10.07秒)時は47.9歩,前述の大学3年10.04秒時は47.6歩と,記録の向上に連れて歩数が少なくなっており,ほぼ同等のピッチを維持したままストライドが大きくなることで記録を短縮しています.レースパターンやピッチ,ストライドは,風やトラックのサーフェス,他選手との競り合いなどの外的条件の影響も受けることが考えられますが,このように,選手によってパフォーマンス向上にともなう総歩数,ピッチやストライドの変化は異なります.今後両選手がどのように走りを変化させることで記録を向上させ「その記録」を達成するのかは非常に興味深いところです.
今回は,モデルレースパターンと,実際の選手の個別データを例に,「100m9秒台」の「理論と実際」について紹介しました.詳細なレース分析データが報告されている桐生選手,山懸選手を例に挙げましたが,実際に「その記録」を達成する可能性は他の選手にも充分にあります.また,世界記録保持者であるBolt選手との比較も敢えて行いませんでした.今後,おそらくはそのような比較を行う報道が膨大に行われると思いますが,身体プロポーションやトレーニング背景が全く異なる競技者との比較はナンセンスであるといえます.
メディアも,あるいは一部の「研究者」さえも,パフォーマンスの突出したスター的選手が登場すると,その選手にばかり着目し,その特徴を論じようと試みます.しかし,そのような時代の流行を追うような行動は本来我々「研究者」の役割ではなく,多数の事例からその共通性を導き出すとともに,事例の階層化(レベル分け)・類型化(タイプ分け)をはかり(谷川ほか,2011),多くの選手・コーチに利用可能な普遍的な知を創造することが重要であり,さらにはそのような体系化された知から,個々の選手の特性に合わせ,パフォーマンスを最適化させる方略を提案していくことが理想であると考えます.そして,我々筑波大学陸上競技研究室は,そのような選手やコーチがパフォーマンスを向上させるために有益となる知見を今後も提供していきたいと思います.
織田幹雄記念陸上男子100mは,2015年4月19日,12:50予選,14:45決勝です.
Give me a place to stand on, and I will move the Earth. -Archimedes