大学というところにいる手前,研究者として,競技現場の指導者として,双方の立場で活動し,成果を出すことを求められます.私自身としては,研究者であり,指導者であると胸を張って主張したいのですが,なかなか実が伴わないというのが現状です.しかしながら,このことを棚に上げても,私自身には,この両者の立場でそれぞれのありようを考えることのできるチャンスがあると考えます.今回はこのようなどっちつかずの立場から,研究者と指導者のあいだについて考えてみたいと思います.
研究者としての私は,指導者の方からこのような厳しいお言葉をいただくことがあります.
私自身,学術論文における現実離れした実験設定や,むずかしい言葉で説明するデータ解釈を読んで,そんなのは直接現物を見ればわかることでは?と思うことが多々ありますが,現場の皆さんも同じような気持ちなのでしょう.
さらに,多くの研究が目指す「一般化」の方向性が,個別性を旨とする指導実践には役立たないとする意見も多く耳にします.確かに,このように言われてしまうと,研究者としては立場がないこともあります.知恵を絞って苦労して得た成果を簡単に否定されるのですからたまりません.こうなってしまえば,研究者には,背景を読み取れないあんた方の勉強が足りないとかなんとか苦しい反論をするくらいしか手が無いのです.
このように研究者の成果には一瞥もくれず鼻っから当てにしない指導者がおられる一方で,研究者はどうかというと,
自分のことを棚に上げていうと,これも困ったものです.
研究者の世界は,正しい手法を用い,科学という共通言語で話せば,そこで得られた成果はそれなりに尊重されます.ルールに守られた世界と言えるかもしれません.その反面,有用な内容でも,ルールに従って記述されることで難しく感じられたり,学会以外の人を遠ざけるような雰囲気があったりという現状も見受けられます.近年,実践研究の分野では,このルールに工夫を加えようという働きかけがあることも事実ですが,これは緒に就いたばかりです.
一方で,実践とその経験というのはそのものが実在の,求めるべき成果そのものであったり,実感に基づくという点で最も信用されるべきものです.しかし,その記述が往々にして主観にたよらざるを得ないという特性から,真実がうまく伝わらなかったり,記述自体がなされないこともあるという現状があります.このように入り組んだ関係性から,多くの指導者は,研究によって得られた成果を軽視し,研究者は成果を活用しようとせず共通の言語で議論してくれない指導者に対していらだちを蓄積していたりします.
唐突ですが,あんこを餅で上手に包む技術は,大福やのおやじさんのもとに厳然として存在しますが,この技術を客観的に記述することは大変難しいものです.しかし,これが記述できないからといっておやじさんの技術の価値が低くなるかというとむしろそれは逆です.どんなに詳細な情報を重ねても,実行がなければおいしく,美しい大福が作られることはありません.世の中には実践の現場での知識や行動についても,記述されなければ存在しないと同様だとする意見がありますが果たしてそうでしょうか.記述されたからといって,にわかにまねできるものでもないところも重要です.さらに学術研究の中には,広く現場で活用されることを必ずしも目的としないもの,あるいは論文自体が目的である場合が存在することも,残念ながら事実です.これについては,ここでは詳しく述べません.
さて,それでは実践研究とはどうあるべきなのでしょうか? 指導の現場には,巨大な複雑系を相手に統計や推計を背景にした判断過程があるわけですが,この判断過程を全ての指導者が身につけるのは難しい.例えば,それならば,判断のもとになる情報を整理して蓄積していきましょうというスタンスも必要になるわけです.目先のことではなく次世代のこと,10年20年先のことを考えてのことです.その点では「見た方が早い」の指摘はある面では正しく,ある面では当たらないと言うことができるでしょう.
一方,実践研究としては不十分であっても,大福の例であれば,包み方の詳細までは記述できなくても,うまくできるあんこと餅の量的な割合や水分量と温度くらいが客観的指標として示されれば,失敗を防ぐことに寄与することはできそうです.
体育・スポーツの世界において,研究は実践の後追いだというひとがおります.自然科学の手法を用いて苦労して証拠を重ねた研究も,所詮は現場のひとがすでに気づいていたことを確認したに過ぎず,膨大な実践知の蓄積には及ばないという考え方です.たしかに科学の手法で,森羅万象を説明し切ることができると考えるのは傲慢というものです.
私自身の胸に手を当ててみても,指導しながら経験的に気づいていたことの客観的証拠をあらためて提示し直すというのは二度手間で回りくどいものです.それでも科学のルールに則って記述の努力をしていくことは,実践における選択肢決定の根拠となるべきものであり,指導者の直感を補強する可能性があるものです.
百歩譲って後追いだったとしても,前述のように,その知見が信ずるに足るものかどうか,実践知とともに,それが信ずるに足るという証拠を一緒に残そうというのが,実践研究の立場だと考えます.忍者の秘伝でさえ巻物になっていたのです.指導者の仕事が「形に」残せなくては話になりません.しかしその一方で功を急ぎ,学術研究の体をなすために,本来伝えるべきもののかたちを無理矢理変えてしまっては本末転倒ということになります.
私自身は還元論的視点(物事を細かい要素に分けて説明すること.学術研究が全てこのようなスタンスで行われている訳ではない)に立った分析というのは,ある意味「凡人」が理解するためのツールと考えています.多くの研究によって得られたデータというものは 得体の知れないものを理解するための切り口を与えるものであると考えます.熟練した指導者の直感というのは,我々の視覚に例えると,自然光のもとでおこなわれる全体像の観察からの判断.それにたいして,多くの研究であぶり出されるものというのは自然科学のプリズムを介したスペクトル分析であるということができるかもしれません.あくまでも全体像ではなく特定の波長を対象としたスペクトル分析だという限界を知って活用すれば,どの程度信じてよいかもわかるでしょう.また,スペクトルに分けてみて初めて気づくようなことが見つかれば,これは熟練した指導者の目に一矢報いることができるのではないでしょうか.
かの室伏重信氏・広治氏の親子子弟コンビ(?)が,技術の確認に熱心にビデオ画像を活用される様子を目の当たりにして小生が思ったことは,これだけ熟練したコーチ,運動感覚に卓越した競技者も肉眼で見える,身体で感じる以上の情報を求めて映像データを活用されているのだから,画像分析もまんざら捨てたものではないゾ ということでした.しかしながら依然として問題なのは,お二人がいかなる経験と知識の蓄積と判断のもと,情報のどの部分に光をあて,そこからどのようなことを感じ,思索をめぐらせておられるかという点です.ここにキャッチアップしていくには,いったいどうしたら良いのでしょうか...それを考えるとまた寝られなくなっちゃいそうです.
笑い話ですが,水蜘蛛の術の記述として,「水の上を歩くには,まず水面に右足を差し出し,右足が沈む前に左足を差し出す.その左足が沈む前に右足を差し出して......」こんなのがあります.この記述は実に客観的で事実としては正しいですが,それをどうやったらできるのかについては,ここからは何もわかりません.研究成果の提示,指導の実態というものが,こんなものになっていないことを祈りながら,自戒の駄文を結ばせていただきます.おつきあいありがとうございました.
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